Archive for the ‘焼物’ Category

萩焼 again

水曜日, 4月 1st, 2009

以前にも一度ご紹介しましたが、今回は山口県の「萩焼」についてご紹介しましょう。
萩焼(はぎやき)は山口県萩市一帯で焼かれる陶器のことですが、一部長門市・山口市にも窯元がり、長門市で焼かれる萩焼は、特に深川萩(ふかわはぎ)と呼ばれます。古くから「一楽二萩三唐津」と謳われるほど、茶人好みの器を焼いてきたことで有名な焼き物です。

萩焼の起源は、400年前、豊臣秀吉とともに朝鮮半島に渡った毛利輝元が、現地の陶工李勺光(りしゃっこう)、李敬(りけい)の兄弟を伴って帰国したことに遡ります。従って当初の作品は朝鮮半島の高麗茶碗に似ており、手法も形状も同じものを用いていたようです。

陶工たちは、毛利氏が萩に城を移した時も同行し、李勺光は萩で御用品を焼く窯を開くことを許されました。この窯が萩焼のはじまりとなり、李勺光の死後は、李敬が窯を継ぎ、藩主から坂高麗左衛門の名を受け、その名は現在まで受け継がれています。

萩焼の特徴は、素地の色を生かすため模様は地味だが使い込むごとにお茶やお酒が浸透し、器表面の色が適当に変化し、枯れた味わいを見せることであるといわれます。

P.S.話は180度変わって、沖縄のシュノーケル・ポイントについてです。シュノーケルとは、シュノーケル、ゴーグル、フィン(足のひれ)をつけて海に潜るマリンスポーツです。ダイビングと違って、ライセンスもいらず子供でも出来るので、親子でのマリンスポーツとして人気があります。沖縄にはそのシュノーケルポイントが数多くあることでも有名なのです。

益子焼

月曜日, 3月 9th, 2009

益子焼(ましこやき)とは、栃木県芳賀郡益子町周辺を産地とする陶器を総称して言われます。益子における焼物の歴史は古く奈良時代までさかのぼりますが、今日の益子焼は江戸時代末期、嘉永年間に常陸国笠間藩(現笠間市)で修行した大塚啓三郎が益子に窯を築いたことによりはじまったとされています。

当初は水がめ・火鉢・壺など主に日用雑貨が焼かれていましたが、1924年(大正13年)に濱田庄司がこの地に入り、民芸が持つ工芸本来の「用の美」を見直す「民芸運動」を実践して、益子焼が民器であるとともに芸術品として全国に知られるようになりました。1979年には通商産業省(現:経済産業省)より、伝統的工芸品に指定されています。

益子焼は水がめや火鉢などの日用品から始まっているため、一般に厚手で素朴な力強い美しさが特徴とされます。

話は変わりますが、頭痛の治し方にはどのようなものがあるでしょうか。治し方にはひとそれぞれ自分なりの方法というものがありそうです。すぐに頭痛薬(鎮痛剤)を飲む方、薬に頼らずに我慢してしまう方、寝る方、こめかみを温める、冷やす・・・などなどです。頭痛自体が感じていらっしゃる方次第なので、頭痛に敏感な方、鈍感な方もいらっしゃいます。

しかし、小児の頭痛の場合には事情が異なります。子どもが頭痛を訴えた場合には注意が必要です。子どもの頭痛の症状は、裏に大きな病気がある場合が多くみられるのです。頭痛はそうした病気に付随して見られる症状に過ぎないことがおおいのです。子どもが頭痛を訴えた場合には、速やかに小児科の医師に相談するようにしましょう。

●薩摩焼

金曜日, 6月 27th, 2008

薩摩焼(さつまやき)は、鹿児島県内で焼かれる陶磁器で、竪野系、龍門司系、苗代川系と種類があります。
主な窯場は加治木町の龍門司窯、日置市(旧東市来町)の苗代川窯、鹿児島市の長太郎窯などがあげられます。
「黒もん」と呼ばれる大衆向けの雑器に分かれます。
「白もん」と呼ばれる豪華絢爛な色絵錦手の磁器と

黒もん(黒薩摩)
大衆用の日用雑器として焼かれていた陶器で、鉄分含有量が多い土を用いるため、黒くなります
繊細かつ優美な白薩摩に対し重厚な面持ちがあり、特に黒ヂョカ(茶家)と呼ばれる素朴な土瓶は焼酎を飲むときに欠かせないといわれます。

白もん白薩摩
日置市(旧東市来町)美山地区にある苗代川窯で焼かれていた陶器。
黒もんが大衆向けであったのに対して、白もんは藩主向けの御用窯で、金、赤、緑、紫、黄など華美な絵付を行った豪華絢爛な色絵錦手が施されています。

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●九谷焼

木曜日, 4月 17th, 2008

九谷焼
九谷の鉱山から陶石が発見され、加賀藩の職人が、今の佐賀県有田町で磁器作りの技術を学んで来たことによって、17世紀の半ば頃、九谷の地で始められたのが古九谷焼です。古九谷は加賀百万石文化の、大らかさときらびやかさを合わせ持つ、独特の力強い様式美を作り上げましたが、17世紀の終わり頃から突然作られなくなりました。その後、19世紀に入ると再び九谷焼が焼かれるようになり、それが再興九谷です。春日山窯の木米(もくべい)風、かつての古九谷の再興をめざした吉田屋窯、赤絵細描画の宮本窯、金襴手(きんらんで)の永楽(えいらく)窯等数多くの窯が現れ、それぞれ特有の画風を作り出し、九谷焼の産業としての地位を築きました。

●有田焼

火曜日, 4月 15th, 2008

基本的には、佐賀県の有田地区周辺で生産された磁器の焼き物を有田焼と言いますが、現在は佐賀県の伊万里・吉田地区、長崎県の三川内・波佐見地区などで生産された焼き物も称して有田焼と呼ばれる事もあります。
焼き物は、陶石の品質、焼成温度、焼成時間、焼成後の冷まし時間などにより、器の強度が変わりますので、有田焼の一番の特徴であり、売りでもある強度により、有田焼として区別される事もあります。
有田地区周辺では、主に、旅館・ホテル・料理屋様がお使いになる「割烹食器」や家庭用食器を中心に、花瓶や飾り皿、置物や小物など、幅広く作られています。

●信楽焼

月曜日, 4月 14th, 2008

天平時代に聖武天皇が紫香楽宮(しがらきのみや)を造るにあたって、瓦を焼いたのが始まりといわれています。鎌倉時代には水がめや種壷が作られ、室町・安土桃山時代には茶道具の生産が盛んとなり、多くの名品が生まれました。
日本六古窯の1つに数えられています。
江戸時代には登り窯によって、茶壷をはじめ多種多様な生活雑器が作られ、大正時代から第二次大戦前までは火鉢が主力商品でしたが、現在では生活に根ざしたタイル・花器・食器・置物等、土の持つ味わいを生かした製品が作られています。

●伊賀焼

金曜日, 4月 11th, 2008

始まりは7世紀後半から8世紀。須恵器という土器も焼かれていて、初めのうちは農業用の種壷が作られていましたが、飛鳥時代には寺院の瓦も作られていたと言われます。
武士の間に茶の湯が盛んになった安土桃山時代の、伊賀上野の藩主が、茶や陶芸をよく知る人物だったことから、茶の湯の陶器として伊賀焼の名は全国に広まりました。その後、江戸時代になると小堀遠州の指導で「遠州伊賀」と呼ばれる厚さの薄い製品が作られるようになります。江戸時代中期には、現在の伊賀焼生産地としての基盤が築かれました。

●備前焼

水曜日, 4月 9th, 2008

日本国の六古窯といわれている瀬戸・常滑・信楽・丹波・越前・備前のなかでも、もっとも古い窯です。
須恵器から備前焼となり、無釉焼き締めの伝統を守りつづけて、1000年の間、窯の煙は絶えたことがありません。
 うわぐすりをかけないで、良質の陶土をじっくり焼き締める、このごく自然な、
土と炎の出会い、その融合によって生み出される素朴な、手づくりのぬくもりの感じられる焼きものが備前焼なのです。
 備前では古きよき伝統を守り、昔ながらの登り窯、松割木の燃料を用いて、雅味深い焼き物を作っております。

●砥部焼

日曜日, 4月 6th, 2008

平安王朝の古い文献にも、良質の砥石の産地として砥部の地が記されています。
砥部焼きがはじまったのは慶長年間と言われ、朝鮮半島から渡来した陶工たちによって日用雑器類などが作られていたようですが、本当の意味での砥部焼きは、安永六年、杉野丈助によって成功を見た白磁をもって始祖とされています。
やや厚手で、しっとりとした重味があり、白磁の肌に映える呉須絵と青磁物が現在国の伝統的工芸産業の指定を受けて居り、砥部焼き本来の姿と言えますが、様々な陶匠たちの研究と時代の要求によって肌の色も、又色釉の冴えにも巾広いバラエティーが加えられ、現在の姿になってきてます。
いづれにしても、素朴な手ざわりと、しっとりとした味わいが砥部で生れる全ての焼きものの底に流れる言わば砥部焼きの心と言えます。

●萩焼

木曜日, 4月 3rd, 2008

萩焼の起源は、400年前、豊臣秀吉とともに朝鮮半島に渡った毛利輝元が、現地の陶工李勺光(りしゃっこう)、李敬(りけい)の兄弟を伴って帰国したことに遡ります。
陶工たちは、毛利氏が萩に城を移した時も同行し、李勺光は萩で御用品を焼く窯を開くことを許されました。この窯が萩焼のはじまりとなり、李勺光の死後は、李敬が窯を継ぎ、藩主から坂高麗左衛門の名を受け、その名は現在まで受け継がれています。
萩焼の当初の作風は李朝のものでしたが、その後、楽焼の作風などが加わり、現在の萩焼に通じる、独自の個性を持った作品が焼かれるようになりました。

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